一般社団法人 小諸フィルムコミッション 『小諸の城と人物』 (平成29年度長野県地域発元気づくり支援金事業)

小諸城址



高さのある難攻不落の空堀

木谷と呼ばれる空堀

水のない濠は通称「空堀(からぼり)」と言われている。

小諸城の空堀は、浅間山の噴火による火山灰地が、長い間の水流によって深くえぐられた谷で「田切地形」といわれている。

戦国時代、武田信玄の家臣・山本勘助と馬場信房らによって小諸城の縄張りがなされ、この地形を巧みに利用した。断崖となっている自然の崖が敵の浸入を阻止することができた小諸城には、南北12の空堀があり、現在、城址懐古園でそのいくつかを見ることができる。

なお、小諸城は城下町より低い位置にあり通称「穴城」と言われ、全国的にも珍しい城郭である。

「地獄谷」ともいわれる深い空堀

武田信玄家臣 山本勘助


本丸と馬場をつなぐ石垣と階段

天守閣から馬場に沿う石垣

小諸城の石垣は自然石をほとんど加工せずに積み上げた野面(のづら)積みである。近世城郭の最初と言われる安土城の石垣を築いた穴太衆(あのうしゅう)の石工が、小諸城の石垣の築造に関係したといわれている。

当時の小諸城主 仙石越前守秀久は慶長末期(1614~15)年頃までに城郭や城門の整備、石垣の築造、城下町の整備など近世城郭として大改修を行い、ほぼ完成したとみられる。

なお天守閣については、天正11(1853)年より天正13(1585)年までに工をして、依田(芦田)信蕃起工、その子康国(松平)に至り竣工。「三重なりき 寛永のはじめ 雷火により消失す」と伝えられている。

専門家は積み方、位置関係、配置など当時のまま残る小諸城の石垣を絶賛している。

天守台の野面積みの石垣

小諸城主 仙石越前守秀久